今はもう引き払ってしまった二人で暮らしていたアパルトモンには大理石を敷き詰めたバスルームがあり、僕はそこが一番に気に 入っていた。なぜか異様に広いバスルームにはぽつんと白い猫足のバスタブが置かれてあり、四角く切り取られた窓からは空が見える。 大理石は白でバスタブも白いものだから何もかも真っ白なそこはちょっとした不思議な空間だった。
 白というのはとても甘い色だ。例えば砂糖だったり、メレンゲ、ミルクプリン。ウェディングドレスにシーツ。 あとこれは僕らの飼っていた、というかなぜか居ついてしまった猫がそうだっただけなのかもしれないのだけれど、白い子猫からは いつも優しい匂いがした。(そして彼女は彼にくっついて僕の前から姿を消したからもうその優しい匂いを嗅ぐこともない。) とにかく、その白い空間は僕にとって特別なものだったのだ。そしてその中で彼とするセックスが好きで好きでそれはもうどうしようも ないほどに好きだった。
 誰かが置き去りにしたバニラのバスボムは思ったよりも甘ったるくはなくて、なかなかに重宝していた。 クレオパトラのミルク風呂はこんな感じだったのだろうか。甘い香りのする泡に包まれたバスタブはどこまでも幸せな匂いがする。 ぱちりぱちりと生まれては弾けて消える泡に埋もれて抱き合うと心の隙間ですらみたされる気がした。 彼は明るいのが嫌だとか危ないだとか言ってあまり好きではなかったみたいだけど、なんだかんだ言って僕が食い下がると 何回かに一度は付き合ってくれた。冬の寒い日に降りしきる雪を見ながらバスタブで肌を重ねるのは、まるで世界に二人きりで取り残されて いるみたいでロマンティックだ。寂しさと幸福感。すべては甘く混じり合って溶けていく。 あの時間を僕は出来るのなら忘れたくはなかった。



 気分転換にと連れ出してもらった冬の海は凍えそうなほどに寒い。吹き付ける冷たい風には閉口するけれど、嫌いではなかった。 寂しさは彼を思い出させるのだ。それはぽっかりと空いた心の隙間に染み込んで憂鬱の波に僕を沈めてしまう。
 誰にだって心に隙間があるものだ。きっと彼にも。そう言えば横に座った男は少しだけ悲しそうな顔でこちらを向いた。
「ヒバリさん、あなた骸のことを忘れるつもりなんてないんでしょう」
 ないんでしょう、その言い回しが頭の中でリフレインする。砂が入ってしまった革靴をぽいと脱ぎ捨てて彼の言ったことを考えてみる。 骸を忘れる気なんてないんでしょう。忘れる気なんて、ないんでしょう。
「うん」
 ないに決まってる。僕の寂しさを埋められるのは彼とあのバスルームでのセックスだけだったからそれらが失われた今となっては 寂しさだけが彼と共にいたことを証明する唯一だった。僕は寂しさに生かされている。

 いい加減に僕の心を返してほしいなんて心にもないことを口にしてみて、滑稽さに笑った。 もし彼が僕の心を手放したなら僕は捨てられたそれを持って彼の元に走るだろう。




IN THE BATHROOM