7月の好く晴れた日の午後、僕はアパートメントに向かって大通りを歩いていた。雨上がりの空はターコイズブルーにアイボリィの やわらかな雲をほんのりと浮かべている。雨は夏の熱気を街からぬぐい去りさわやかな風を地上に吹き込んでいた。 街路樹のつややかな葉は雫に濡れ、公園では子供たちが水たまりをばしゃばしゃと跳ね上げて歓声が広がっている。 今はもううっすらと消えかかっているけれど虹が雲のあいだに橋を架けていて、世界は美しいと勘違いしてしまいそうな ほどに整った14時だった。香ばしい匂いのバゲットにいつもの紅茶、贔屓の作家の新刊を手に入れておまけに長期の休暇中という シチュエーションは僕を鼻歌でも歌いだしそうなくらいにご機嫌にさせた。

"Some day I'll wish upon a star And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops Away above the chimney tops That's where you'll find me "

 ジュディのオーバー・ザ・レインボウをハミングしながらアパートメントの階段を昇り「303」のナンバープレートが見えたところで 僕はおや、と足を止めた。ドアの前には先客がいて、僕を見るなり遅いと文句を投げつけたのだ。 彼の苛立った目線やふてくされた態度は休日が強制終了したことを告げていた。 彼は面白い人間だったけれどそれは外から見ている分にかぎってのことだ。関わると碌なことはない。



   1年と3ヶ月ほど前にボンゴレ]世は期間限定で本部をイタリアに移すことになった。すべての機関がそっくりそのまま移行し、 文字通り大規模な「引っ越し」が行われたのだ。2週間ほどホテルに滞在して僕はその期間を部屋探しにあてた。 イタリアにいた頃の隠れ家はすでに引き払っていたし、ほかの守護者たちのようにボンゴレの用意した屋敷に住む気はさらさらなかった。 僕はそれなりに広くて感じの良いアパートメントを探して新しい生活を始めるつもりで、結果だけ言えば申し分のない物件が 見つかったのだけれど思いもよらない誤算があった。それは彼が隣に越してきたことだった。イタリアに飛んで2日目、僕がホテルを出ると彼は 下の広場で待ち構えていた。なんのことはない。雲雀はまだイタリア語が十分ではなくて、けれどアルコバレーノや家庭教師に 彼曰く「貸し」を作るのが嫌だったから僕を通訳に使うことにしたらしい。僕と彼は友人ですらなくただの同僚なのでいくら 迷惑をかけようと心は痛まないというのが彼の言い分だった。
 それから毎日のようにコバンザメよろしく、彼は僕にくっついてきた。僕は納得のいく部屋が見つかるまでいくらでもローマの街を歩く つもりだったし、雲雀がとびきり短気で飽き性なのを重々承知していたのでそのうちにぷいといなくなってしまうだろうと踏んでいたのだけれど 、予想に反して彼はなかなかにしぶとかった。そうやっているうちに僕の部屋が決まり、彼は隣の部屋に入ると 言い出して気が付けばそのアパートメントで僕は新しい生活を切っていた。雲雀は部屋が決まった途端に知人の家を 転々として一向に返ってくる気配がなかった。少なくとも僕は契約書を交わして以来、このアパートメントで彼の姿を見たことはない。 その雲雀が僕を待っていたのだ。どう考えても厄介ごとに違いなかった。

 挨拶をすっとばして彼が口にしたのは家具を貸してほしいという要求だった。その無茶苦茶な内容と人にものを頼むとは到底 思えないふてぶてしさに僕は呆然とした。嫌な予感は的中したのだ。僕が何も返さずに突っ立っていることに焦れたのだろう、雲雀は口を への字に曲げてとても子供じみた声で「あの人が明日来るんだ」続けて「だってうるさいんだもの」と言った。
 あの人とはボンゴレと同盟を結んでいるマフィアのボスで彼の家庭教師でもあるキャバッローネのディーノのことだ。僕はあの男の こと、厳密に言えば彼と雲雀のことをよく知っていた。僕だけじゃない。ボンゴレに籍を置くものならばみんな知っていることだ。 ふたりは傍から見ていても好きあっているのが明々白々だった。けれど恋人ではない。好意のベクトルは互いを 向いているというのに当の本人同士がそれをだめにしているのだ。ふたりが何を考えているのかは知らないが、遠い昔に結んだ師弟という関係が男が一歩を踏み出すことを邪魔し、 男に嫌われたくないという感情が雲雀に二の足を踏ませ、子供のような防御反応を取る雲雀を彼がいつまでも子供扱いすることによって 一層にややこしくしていた。その男が明日雲雀を訪ねてくるのだという。いいかげんに想いを告げてしまえばいいのに。僕は半ばうんざりと しながら思ったけれど、多分それはないだろう。ふたりは互いの心をすこしだけつつきあって、それでおしまいなのだ。
 ふらふらと友人と呼ぶのも気が咎めるレベルの知人のあいだをほっつき歩いているのだから外で会えばいいのに、雲雀はこのアパートメントで彼に会うことを選んだ。 そして生活感のない部屋に男が不安を抱かないように僕に家具を貸せというのだ。迷惑だなぁと思いながらも結局了承してしまった僕は 雲雀の部屋をひょいと覗いて、あまりのことに目を剥いた。生活感がないなんてものじゃない。そこにはなにひとつ、家具どころか ベッドひとつカーテンひとつ存在せず、アパートメントの視察をしたあの時のまま、まっさらな空間が横たわっていた。

 僕と雲雀は部屋を掃除して(実際に掃除をしたのは僕だけで雲雀は気にも留めないようだった。雲雀の部屋が いくら蜘蛛の巣だらけだろうと知ったことはないのだけれど、すこしずつ集めたお気に入りのアンティーク家具たちがホコリまみれに なるのは忍びなかった)それから僕の部屋の家具を彼の部屋に移した。
 僕は善人ではないし、最初のうちは彼の要求を突っぱねたのだけれど雲雀の出してきた条件があまりに魅力的だったのですぐに前言を 撤回するはめになった。僕はその時にとある女性にストーキングと呼んでいいほどに執着されていて、おまけに仕事がらみの付き合いで あったために無碍にもできずに困っていたのだ。 雲雀はそれを知っていてうまく取り計らってくれるという。彼が矢面に出ていくのだから穏便ではなく惨事になるのだろうけれど正直僕に 降りかからなければなんでもいい。ボンゴレは雲雀に甘いから最後には収拾がつくだろう。
「めんどくさいし、あの女には僕らが付き合ってるっていうから」と窓辺にいけてあった薔薇の花を花瓶ごと持ち上げて雲雀は言った。 僕は投げやりに頷く。雲雀の性格を考えれば仕方がないことだろう。陰湿なご婦人に付け狙われるくらいならホモセクシュアルだと いうレッテルなんて甘んじて受けようじゃあないか。
 何も考えていない雲雀は次々に家具を運び込んでしまい、置く場所やら色合わせやらが無神経なそれは目も当てられないぐらいに雑多に見えた。 どう見ても投げやりの間に合わせで、雲雀にまったく似合わない。
 結局雲雀はソファを残して全部持って行ってしまった。本当はソファも持っていかれそうだったのだけれどなんとか死守した。 家はあるのに寝る場所がないなんてそんな状況だけは回避したい。 それなりに満足した雲雀がドアを閉めた時には僕は疲れ切ってもう何もする気も起きなかった。 バゲットも新刊も放り出しソファに倒れこんで眠った。書きかけの手紙だとかまだ9時だとか、どうでもよくなっていた。愛猫は 気位の高いシャムの雌でひどく面食いだったものだから何もない部屋にいる僕と隣の部屋の雲雀を見比べてトコトコと向こう側へ 行ってしまった。まったく薄情ものだ。破壊魔の雲雀が僕のアンティークたちを滅茶苦茶にしませんように。瞼を閉じれば眠りは すぐに僕を夢の世界へと連れ去った。




 次の日、僕が出かけている昼間のうちにディーノは顔を出して帰って行ったらしい。昨日と同じ14時ごろに戻ると雲雀が彼の部屋の玄関に座って 待っていた。開け放たれたドアから覗く風景は異質で雲雀はすこしもそこに馴染んでいなかった。
「うまく凌げました?」
「すぐにばれたみたいだった」
「そうでしょうね」
 僕が思った通りにふたりの関係は1ミリたりとも変わっていないようだった。相も変わらずの意地の張り合い。互いが互いを特別にしすぎて、 そして己のエゴイズムで好意すら口にできないだなんて本末転倒だ。滑稽で仕方がないのだけれど彼らはこれからもずっとそれを 続けるんだろう。 家具をすべて戻し終えるころには散歩に出ていたシャム猫が素知らぬ顔でベランダからするりと帰ってきた。
 きっと雲雀は彼のありかたを一生理解することはないし、彼は雲雀の本質を正しく理解することはできない。 そもそもの価値観がかけ離れすぎているのだ。窓辺に無造作に置かれていた花瓶を最後に取って、振り返ると雲雀はじっと僕を見ていた。黒目が 子供のように鮮やかで、けれども疲れている。それを見つけてしまうと彼と雲雀よりも雲雀と僕の方が何倍も上手く いくのだろうなという事実だけがすとんと落ちてきた。なんだかんだと言って僕と雲雀は似ているのだ。
 雲雀には人を惹きつけて止まないある種の力がある。それは例外なく僕にも働いていて雲雀が僕にとってすこし特別なのと同様に 雲雀の僕への接し方は彼がその他大勢に接するのとはほんのすこしだけ違う。 僕らのあいだには「ちょっといいかな」と思う靄のようなものが漂っているのだけれど、まぁ所詮はその程度なのだ。 今も誘われたらキスぐらいしてもいいかなとお互いに思っているのに相手の出方を待っていて自分からは動こうとは思っていない。 だからあのふたりの関係みたいに何の進展もしないのだ。
 雲雀と僕はしばらく互いを見合っていたが何も起きないことを確認して体の力を抜いた。「じゃあ」と何もなかったように別れを 交わして僕は部屋に戻った。雲雀は階段を下りていつものように大通りから姿を消した。僕は雲雀にキスをしないし、雲雀も僕に キスしたりなんてしない。

 新しい紅茶の缶を切って沸かしたばかりのお湯で丁寧に蒸らす。砂時計をひっくり返して僕はフローリングに横たわるハードカバーを 手に取った。シェイクスピアに着想を得た愛憎劇は幾分ありがちな印象だけれども違う世界へのフライトチケットには十分だろう。 そうして紅茶の香りがただよう頃には頭のなかの靄はかたちを失くしどこかへと溶けてなくなるのだ。空からこぼれるレモンの雫のように。



 

ライク・レモンドロップス