※なんとなく芸者パロ。用語とかフィーリングで使っています。雰囲気で読んでいただけたら嬉しいです。
芸子の世界には「旦那さま」と呼ばれる特別なスティタスが存在する。春をひさぐ遊女や男娼たちとは違い、芸を磨き見目だけに捕らわれぬ知識と教養で客を楽しませるのが芸者である。
そしてそれは芸者の誇りでもあるのだ。けれども芸者が一度も色を売らぬかと言えば、そういうわけにはゆかない。
遊女よりもはるかに少なくではあるが、はるかに高い値でひと夜の夢を売る。美しく賢い弁天にかしずくのは云わば財のある男のスティタスだった。その中でも芸者の水揚げをした客は
後見人として芸者を多岐にわたって支援する。芸者の繁栄はパトロンなくしてはない。無碍にはできぬ相手であった。
唐突であるが、藤次郎はおのれの旦那になった男が嫌いで仕方がない。何処が嫌かと言うと――いや、よそう。男の欠点などあげだしたらきりがない。それほどにすべてが気に入らなかった。
顔合わせのときにこの男だけは御免だと思っていたら法外な水揚げ料を払って旦那に収まり、今日だけは会いたくはないと思えばふらりと現れる。存在そのものが神経を逆撫でするのだ。
風雅を好み美しいものを集める男を皆は羨望の目で見たが、藤次郎はおのれが男のコレクションに成り下がったように思えてますます憎しみを募らせただけだった。
その「旦那さま」をなかば押し出すように門の外に帰した次の朝、久しく止んでいた風花が降りはじめて、どうやらそのまま積もる様子である。
こうなると商売は上がったりでざまあみろと藤次郎は煙管の口を噛みながら毒づいた。あの男も来やしまい。そのかわりに派手な成りの優男が来ていた。
長い髪を頭のてっぺんで結い上げて鳥の羽を突き刺した歌舞伎ものだ。客と呼ぶのを躊躇うほどに若く貫禄もないが、何故か皆から好かれ、みやびごとへの造詣も深かった。
幾度か遊びに来るうちに藤次郎を気に入ったのだろう。入り浸っていると詰られても仕方のないほど藤次郎の近くをうろうろとしている。たまに部屋に上がり込むこともあり
これは御法度なのだけれどもきちんと金を払うし、男の底抜けの明るさのせいか誰も怒れずに放ってある。他の客でならあり得ないことだ。
藤次郎もたまに寝床に入れてやるくらいには男を気に入っていた。その件の男は湯を貰いに下に降りている。
しかし、寒い。藤次郎は寒いのは苦手である。と言って暑いのも御免なのだが、元の出自がいいだけに茶屋町の染み入るような冷えが堪えるのだ。
襟を掻き合わせていると、ふっと襖に影が差して断りと共に男が火鉢を手に入ってきた。手際よく藤次郎の傍らにそれを押しやり、綿の入った羽織を着せる男の名を景という。
飾り気のない黒の流しを着ているが、本来ならばこのような場にそぐわぬ身分の男である。男は藤次郎が手にした煙管に目を遣ると顔を顰めた。自ら朝昼晩に一服ずつ、一日三度までと
決めた喫煙を藤次郎が守らなかったからだ。政宗さま、と咎める声を藤次郎はぴしゃりと遮った。その名はとうに藤次郎のものではない。
かつて北の地に名を轟かせた武士の名門、それが藤次郎の生家だ。藤次郎は跡継ぎの嫡男で、景は藤次郎の守役だった。勢いに乗って領土を広げていた藤次郎の家は、けれども藤次郎の
代に移ることなく滅んだ。天が父に与えたのは反逆者の汚名だった。戦乱の世であっても絶大で神とも崇められた帝の暗殺未遂という濡れ衣によって藤次郎の家は取り潰しとなった。
逆賊を匿う家など何処にもなく行き着いた先は色街だ。雅を大事にする家に育ったのが不幸中の幸いであったのだろう。男娼までには落ちぶれずにすんだのだ。
この街で芸を磨き、後に続くものを育てて一生を終える。それしか生きる術がない。あのころに戻るなど、ゆめのまたゆめである。
そう、藤次郎は新しく生き直そうと日々を過ごしていた。はるか昔のことなど忘れて、それなりに楽しく。それなのに邪魔をするものがいる。景だ。
藤次郎の家は取り潰しにあったが、命を奪われたのは父ひとりであった。家臣たちはそれぞれが隠居するなり別の新しい主君に仕えるなりそれは自由で、むしろ優秀なものが多かったから、
他家の武将たちは登用に積極的な態度を見せた。景も優れた男であったからそういった話はあったはずだ。それなのに禄も払えぬ藤次郎から離れるそぶりも見せず世話を焼いて、
茶屋の用心棒のような雑用をこなしている。
景に取り上げられてしまった煙管の代わりに贔屓客の持ってきた飴をがりりとかじる。さっさと見捨ててくれたらよいのに。卑しい家の出であった己を取り立てた父への恩義か
義務感からなのか、落ちぶれたかつての主に何も言わず添う男を見るたびに藤次郎は惨めな気持ちになった。没落していくさまをすぐそばで見られるほど惨めったらしいことがあるだろうか。
幼いころからもっとも近いところに居て、兄弟のいない藤次郎には兄のように頼もしく心を許せた男に。いや兄がわりなだけではない。景のことを憎からず思う、直裁に言えば好いているのだ。
そのような相手に側にいられてやり直しなどきくはずもなかった。
思っていた通り、雪は溶けずに積もっていった。悠長に酒を飲んでいた優男も格子から見るたびに嵩を増していく雪に慌てて帰って行った。明日の往来は犬の仔一匹いやしまい。
出来る限り身を縮め、己の体でようやく温めた布団の中で藤次郎はうとうとと微睡んでいた。ひゅるるる、障子の向こうは風が空を切っている。そういえば、藤次郎の部屋の格子窓を縄張りにしている
ジョウビタキはどうしているだろうか。ふとそう思った。あの鳥は縄張り意識が強いのでいつもひとりでいる。腹に傷があるのかそこだけ毛が逆立って、こんな寒さではさぞかし辛いだろうに。
そのようなことをつらつらと眠りに浸りながら考えていると、するりと襖が開いてひとの気配が滑り込んできた。足音を殺した気配が近付いてきたが藤次郎は焦ることはなかった。
どうせ雪に路を塞がれた優男が戻ってきたのだろうと思ったからだ。ひたひたと迫る男は藤次郎の寝床に近付き、(此処までは別段驚きもしない)ぬくぬくとした布団を持ち上げ、
冷たい空気が入り込んで文句を言ってやろうと藤次郎はしたが、次の瞬間あまりに驚いたもので一切の言葉を失ってしまった。不埒な侵入者は背を丸める藤次郎を抱え込むように後ろから覆い被さってきた。
その体は氷のように冷たくて思わず心臓が跳ねるが、衝撃はそれだけに終わらなかった。冬の香りがする。肩に額を擦り付けてくる男からは冬の空に咲く水仙の匂いがした。
景が用いているものだ。
小十郎。思わず昔の名で呼ぶと男は至極嬉しそうに笑った。おまえ、なにをしている!慌てる藤次郎を尚も抱き込むと男は耳元でかつての主の名を呼んだ。政宗さま、と。
「おまえ、だから、」
「あの頭の軽い若造や骨董狂いは床に入れてやるのに貴方のジョウビタキの巣に雪吊りをした小十郎にはつれなくされるのか」
完全な言い掛かりだ。無理矢理に頸を捻って見た男の目はどこかとろりととけている。酒が入っているらしい。そして酔っているだけに遠慮も容赦も慎みもなかった。
貴方様も小十郎を憎からず想われているでしょうに。ぬけぬけと言い放った男にぶちりと堪忍袋の緒が切れた。
政宗はすっくと立ち上がり不逞を働く男を布団の外へ蹴り出す。
「ってぇ!」
「馬鹿野郎こっちはさみぃんだよ!」
だくだくと心臓が五月蠅い。凍えるほど寒かったはずなのに今は頬が火照ってしようがなかった。ついに愛情であると認めてしまった。もう逃げも隠れも出来ないのだ。
もう小十郎は政宗を見捨ててはくれないだろう。政宗はすべてを捨てて藤次郎になることはできない。勢いのままに襖を開け放つと小十郎は訝しげな顔で何処に行くのかと聞いてきた。
お前のせいで凍えたから風呂に行くと言い捨てて政宗は部屋を飛び出す。このまま此処にいて眠られるはずもない。小十郎はついてくることにしたらしい。憮然としていたがやがて
たしたしと追いかけてくる音がした。今の遣り取りを誰かが聞いていたかもしれない。畜生――もうどうにでもなれと思った。
芸者と尉鶲
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