まっさらな緑が濡れそぼっている。地面に落ち切れずに葉に留まった雫がきらきらと光を弾いていた。先程までの強い雨がまるで
嘘のように淡い色をした風が吹いていくのを硝子越しに眺めていた。透明な壁で隔てられた内側は喧騒に包まれている。
次々と流れるアナウンス。旅立つ恋人を見送る人、父親の帰りを待つ子供。ざわざわと混み合うロビーは心なしか少し空気が薄い気が
した。やはり人が多いところは嫌いだ。痛み始めたこめかみを抑えて雲雀は振り返った。
「君がそんなに楽しそうにしてるなんて始めて見た」
「そうですか?」
「どうしたの、乗り気じゃなかったくせに」
からかうような口調に骸は眉を顰めて困ったように笑った。
この国から出ることを勧めたのは雲雀で、それを渋っていたのは確かに骸だった。すべてが始まったあの夏の日から何年も経って、
みな当たり前のように裏の世界に身を置くようになって。それを望んだ者も望まなかった者も取るべき道は一つしかなかったけれど、
その世界を誰よりも憎んでいたのは骸であることを知っていたから雲雀はそう言ったのだった。
気乗りのしない素振りを見せていた彼は7日ほど前にあっさりと手のひらを返した。1年間、外国の大学に留学すると
言い出したのだ。
「君の言うように誰も僕を知らないところで平凡な生活をしてみようと思ったのですよ」
外に出るなら今しかないのは明白だった。今を逃せば永遠にその機会を失い、泥のように生きてゆかなければならないだろう。
「幸せとか、そういうのは僕には縁がないものと思っていました。6度も輪廻をめぐってすべてを知っていると思っていたのです。
世界の醜さも残酷さも、救いがないほどの深い絶望も」
今更、幸せになりたいなどと願ったりしないと思っていた。
そんなものはいらないと思っていた、思っていたのに。いつの間にか雲雀は心の中に入って来てしまった。
「気付いたのです。綺麗なものや明るいもの、この世界にはまだ僕の知らないことが溢れていると。それを見つけてきたいと思います」
君と幸せになるために、そう言って骸は穏やかに笑った。
彼の中で止まっていた時はようやく動き出して、そして光のほうへと針を進めるのだろう。生きることを見出した彼に何を告げるべき
なのだろうか。肯定の言葉かいつもの憎まれ口か、今日1つ年を重ねる彼への祝いの言葉か。
口を開いたところで言葉はアナウンスに遮られた。ちょうど彼が乗る便のものだ。骸の背後に馴染みの3人の姿を見つけた雲雀は
出かかった言葉を飲み込んだ。
「元気でね」
「ええ、恭弥も」
肩を軽く抱かれて額が合わさる。するりと離れた手がトランクを持ち直した。
「手紙を書きます」
「めんどくさいことをしなくても電話すれば」
「手紙のほうが想いが伝わるでしょう」
では、と笑顔で背を向けた骸に3人が駆け寄っていくのを見送って雲雀は踵を返した。
背後ではしばしの別れを惜しんでいるのだろう。彼の拠りどころとなった仲間たちの声が時折人の波をすり抜けて聞こえてくる。
それでいいのだと思う。人は帰るべきところがあるからこそ遠くへと飛び立てるのだから。
外へ出ると空のかなたにきらきらと輝く虹がかかっていた。
この1年で彼はどんなふうに変わるのだろう。それはきっと誰にも分からないことだけれど、確かなのは1年後のこの日に自分は
彼と一緒にいるだろうことだった。たとえ何があろうともこれから何十回と訪れるこの日を2人で迎える、それだけは変わらないこと
のように思えた。
いとしきみへ
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