ひとつだけ取ったクロワッサンはこれでもかというほどバターが織り込んであったのだろう、 しつこすぎてとても食べれたものじゃなかった。
 一口だけ咀嚼したそれをもう食べる気はせず、といってうず高く盛られたクロワッサンの山に戻すことも出来なかったから それはただ雲雀の手の中でほろほろと崩れていく。 指にまとわりつく生地もなにもかもいい気がしなかった。そもそも朝食などいつも食べないのだから。

「これくらいは食べないと」
 ことり、と置かれた小皿にはヨーグルトとフルーツが可愛らしく盛られていて、それを雲雀の前に押しやった男は ブレックファーストと呼ぶにふさわしい豪華な皿を広げてご機嫌のようだった。
 クロワッサンにデニッシュ。サラダ、チーズ、柔らかな湯気をまとうスクランブルエッグ。ヨーグルトの小皿と搾りたての グレープフルーツジュース、それからコーヒー。
 見ただけでも胃がむかむかして雲雀はずらりとならぶ皿から顔を背ける。 しつこくすすめられて渋々かじったフルーツは案の定とでも言うべきかシロップ漬けのコンポートで、慌てて水で飲み下した。
「…あまい、」
「それはまぁ、コンポートですからね」
「信じられない。なんでそんなに食べられるの」
「雲雀が食べなさすぎです。朝を抜くと頭が働かないですよ」
「…昨日あれだけ食べたくせに」
「そのあとベッドで散々したでしょう」
 朝からいやらしいことを平気で吐き出す口を黙らせようとテーブルの下で足を蹴っても、蹴られた相手はけろりとした顔で、 だって本当のことでしょうと言ってのけた。

 寝過ごしてしまって朝食のラストオーダーぎりぎりにすべりこんだレストラン。当然のようにぐしゃぐしゃのままの部屋。
「先にひとりで戻ろうなんて思わないことですね。居たたまれなくなるだけですよ」
 そして見透かしたように笑う彼。まったくその通りだからたちが悪い。
 拗ねたように窓の外を向くと長い指が追いかけてきて左手を取られた。テーブルの下で見つからないように手が繋がれる。 その優しい温度を嫌いではないと感じてしまう自分を雲雀はようやく許せるようになった。
 繋いだ手はそのままに彼は器用に食事を続ける。
「今日は運河の方まで行きましょうか。橋を見て、あのあたりにはギャラリーがたくさんあったはずですからそこに行きましょう」
「夜は?」
「フレンチを予約しておきました」
「それからどうするの」
「それから?もう分かっているのでしょう」
 柔らかく穏やかに響く声で彼は笑う。
「昨日と同じです。柔らかいベッドで優しいセックスをしましょう。大丈夫、きれいに溶かしてあげますから」
「…昨日も一昨日もしたじゃない」
 ささやかな抗議は軽やかな声に一蹴される。
「夜になるときみに触れたくなるのです。僕だけじゃなくてきみもそうだと思うのですけれど。 でも、この話はもう終わりです。その時になってから考えればいい」
 いつのまにか食事を終えた彼はコーヒーを啜りながら地図を広げている。ひらりと離れていった手は地図の上の赤くマーク を付けられた一点をとん、と叩いた。ほら、ここに行きましょう。

 彼のあたたかな指に馴染んでしまったように、いつか彼の甘くて優しすぎる砂糖菓子のようなセックスに慣れてしまったら どうしようかと雲雀は思う。きれいに溶かされ続けて、最後にはなにも残らないんじゃないだろうか。
 そこまで考えて馬鹿らしくなって思考をすべて放棄した。 やめよう。彼の言葉じゃないけれど、その時になって考えればいいだけのこと。光がさしこむ朝のテーブルの上、広げられた地図にはたくさんの赤い印がある。
 そう、旅はまだ始まったばかりなのだから。




キャナル・シティ

Tante Grazie,Nagatsuki!!