彼と桜を見たのは二度きりだった。
 一度目は遠い夏の日に。雲雀は冷たいコンクリートの上に身体を投げ出して、彼はすこし離れたソファの上から天井一面に咲き誇る 薄紅色の花を眺めていた。春に咲くよく見知った花とは違うまったくと言っていいほどに生気を感じさせぬそれは美しくもなんとも なかった。まがいものの幻覚でつくり出された桜は偽物と分かれば怖くもない。身体から力を抜き、その時が訪れるのを待って雲雀は目 を閉じた。
 二度目は嵐の丘で。たしか夜であったように思う。街灯はなかったはずなのに、やけにくっきりと浮かび上がる桜の森を鮮明に覚えて いる。風の強い日で、ちぎれるように花が飛んでいた。
 そのときには彼も雲雀も、もう大人になっていた。白と黒、善悪、好意と憎悪で世界が割り切れるものではないと分かっていた。 森には二人を除いていきものの気配がしない。ただ風が轟々と哭いて桜の雨を降らしているだけだ。向かい合って立つ彼がなにか口に したように思えて雲雀は顔を上げた。彼の唇は動いているのだけれども、風の音に阻まれて雲雀のところまでは届かない。なんて言った の。聞き返しても渺々と嵐が邪魔をしてそのうちに雨も激しくなってきた。視界を塞ぐように花は降り落ち、ついには弾けて見えなくなった。





 なにごとも渦中においては冷静な判断ができないものだ。あとになって思えば実にくだらないことで思い悩んだり、白を黒と決めつけ ることすら、ある。自分自身がそうだったと雲雀は思う。なにも分からず、あれとの関係を恋だと思い込んでいた。今になってみれば よく分かる。あれは恋などという綺麗で醜いものではない。執着、それ以外のなにものでもなかった。 皮肉なことに出会った瞬間、互いが孤独と欠陥を抱えていることに気付かされてしまった。あの夏の終わりの日の記憶は禍々しいもの でしかないというのに。
 雲雀の抱える孤独は彼でなくては埋めることのできないものであったし、彼に巣喰う虚無も雲雀を必要としていたのだ。 孤独であることを雲雀は愛してすらいた。生きていくということはひとりきりであるということだ。人は真に理解しあえることなどない。 それを履き違えると痛い目を見るのは自分なのだ。孤独を消そうと土足で入り込む真似をする人間は数多いたけれど、雲雀が孤独である ことに価値を見い出したのは彼だけだった。きっと雲雀も彼も孤独でなければ生きていけない。互いが互いでなくてはならない。 依存と執着の関係は完璧なサイクルを描いていた。互いの尾を呑みこむ彼の蛇のようにぴったりと噛み合っていた。
 それなのに片割れはどこかへ消えてしまったのだ。だから雲雀の空っぽな部分は冷たい風に吹き晒されたままである。 最後に彼を見たのは何時のことだったか、雲雀はもう覚えてはいないのだけれど、その夜から心のなかはずっと嵐だ。あの日のように。



 夜の帳にぴったりと閉じこめられたマホガニーの扉を開くと中からアンニュイにけぶるジャズがあふれ出す。照明を絞った暗い店内に メロディアスなピアノはひどく似合っていた。混み入っているわけではないけれど閑散としているわけでもない。そんなバーに足を踏み 入れた雲雀はまっすぐにカウンターを目指した。並ぶ椅子の右から三番目、いつもそこに彼女は座っている。背筋がぴんと伸びて、 ブルーグレイのドレスから覗くすらりとした足が美しい。振り返った耳元にダイアモンドが輝いていた。華美であることは彼女に ふさわしい。
 雲雀と彼との関係は恋や愛ではなかったけれど、彼女が彼に寄せるのは紛れもなく恋愛の情であった。恋をしているから振り向かせよ うと躍起になり、時に陶酔し、憎み、そして待ち続けることができる。何年か前の彼が消息を絶った日、その日偶然に雲雀はここで彼女 を見かけた。最後に彼と会ったのがこのバーなのだそうだ。別に言い合わせたわけではないけれど結果として毎年この日に彼女と顔を合わ せるようになってしまった。
 彼女の左側、端から四番目の席に雲雀は腰を下ろす。足元の赤い絨毯がやけに目を引いた。適当に頼んだカクテルには桜の花びらが浮か んでいて、指でつまみ上げてなるべく見ないですむところに爪弾く。バーテンダーの粋な計らいも余計なお節介に過ぎない。 彼女はグラスに添えられたマドラーを至極つまらなさそうに弄んでいた。結局、また彼が姿を見せることはなかった。 姿どころかここ二、三年は噂ひとつ耳にしない。
 綺麗にカットされたスワロフスキーのシャンデリアもどこかうすぼんやりと瞬いているようで、そう思えば風格のあるバーもくたびれ て見えた。まるで硝子のなかで立ち枯れてしまった花束のように、彼を追ううちに取り残されてしまっているのだ。雲雀も、彼女も。
 ふいに彼女が左手を掲げた。ほっそりとなよやかな薬指にはハートシェイプに切り抜かれた愛らしい指輪がはめ込まれている。 わずかな灯りの下でも鮮やかにきらめきを放つ宝石は彼が最後に贈ったプレゼントだ。彼女自身の目線まで持ち上げたダイアモンド を見つめる目はやはりつまらなさそうだった。
「馬鹿みたい」
 損得でしか動かない女だったから、それは彼女の心からの言葉だったに違いない。いつまで経っても現れない彼と、彼をずっと待っている 自分と、待ってもいないのに影を引きずっている雲雀へあてた言葉だ。きっと。
 そう、雲雀と彼女の違いはそこだった。待ってなんかいない。彼が生きていようといまいと、二度と会うことはないだろうと雲雀は 直感的に確信していた。そういう時期は既に過ぎ去ってしまっておそらくもうやってくることはない。あの嵐の日に雲雀のなかのなにか は彼とともに無くなってしまった。或いは雲雀の一部は永遠に死んでしまったのかもしれない。そう思うのに雲雀はここに来ることを 止められずにいた。来年もこうして彼女と顔を合わせることになるのだろう。まったくもって、時間の無駄遣いだった。

 枝から落ちた花は踏みにじられて見苦しい色を晒すだけだ。けれども瞼の裏に浮かぶのは雨のように降り注ぎながらも美しく気品を 失わないあの日の桜だった。あの嵐の丘で彼がなんと言ったのか、そして彼の一部もあのときに雲雀と共に死んでしまったのか。 ただそれだけを知りたいと想った。





嵐が丘