その樹は七たび竈の火にくべても燃え尽きることはなく、ゆえに七竈と呼ぶのだという。

 長く生きれば不可思議なことにも多々逢うものだ。
 はじめて訪れたときから奇妙な屋敷だった。生け垣に沿ってぐるりと七竈が植えられており、自然と屋敷を取り囲むかたちになっている。 その昔続けて二度外からの火で屋敷が燃えたことがあり、それからというもの一族は火に神経質になったそうだ。 火事を防ぐための七竈は秋になれば赤く色付き、落葉したあともくれなゐの実は枝に留まり、まるで屋敷が炎にのまれているかのように 見えた。けれども雛罌粟のように火の色を宿すのは暑い夏を越してからのことだ。季節は初夏。薫風に柔らかな新芽が揺られている。 頼りない赤子を思わせる萌黄いろを濡れ縁で見上げていると奥から家主が姿を現した。
「骸、」
 名を呼ぶ声にこうべを返せば雲雀が本当にちいさな赤ん坊を抱いて立っていた。いつのまにか自分の殻に入っていたのだろう、 僕は産声さえ気付かなかったのだ。たった今、新しい命が生まれたというのに屋敷のなかはひっそりと静寂に包まれている。赤子も息を 疑うくらいに静かである。静かすぎて耳鳴りがしそうなほどだった。
「男の子ですか」
「うん」
 雲雀は頷くとそっと僕に赤ん坊を抱かせてくれた。ふにゃふにゃとした生き物は相変わらず深い眠りのなかに沈み込んでいる。 目と鼻筋が君に似ていると伝えると、雲雀は口元は彼女に似ているよと笑った。
「でも、あれはもう長くはないだろうね」
 静かな声。雲雀は怒りや歓びを隠さなかったけれど、哀しみだけは別だった。少なくとも僕は彼が泣いたところを見たことがない。 雲雀の悲愴は彼以外覗くことが出来ないほど奥底でゆっくりと降り積もり濃度を増しているのだった。そしてそれを癒すことはおろか、 誰も触れることすら出来ない。孤独で寂しいひとなのだ。彼を知らないひとならば薄情だと罵るかもしれないくらいにあらゆる表情を 消し去った顔で雲雀は屋敷の奥をじっと見ていた。
 あれというのは赤子の母のことだ。



 雲雀は僕がまともな「ひと」ではないと知っていて、なお僕を拒絶しなかった唯一の人間だ。不運にも僕を知ってしまったひとは 化け物か幽霊を見るような目で僕を見る。それは正しい。歳もとらず死にもしない生き物が「まとも」であるはずがないのだ。 しかし生きているからには山奥に閉じこもっているわけにもいかず、僕は村や町を転々としながら暮らしている。そうやってあたりに住む 人々が僕がまともではないことに気付く前に場所を移すのだ。今までの人生を僕はそうやってひっそりと生きてきた。
 若いころはひとのなかに理解者が現れるのではないかと期待したが、幾度か失敗を繰り返すうちに頭のなかからその考えをすっかり 追い出すことになった。誰だって傷つくのは辛い。僕も同じだ。かつて僕はひとであり、そしてあるときを境にひとではなくなった。 あるいは雲雀もひとではないのかもしれない。少なくとも普通ではなかった。
「ちょっとした呪いのようなものさ」と雲雀は言った。口を挟ませてもらうなら、それはちょっとと形容できる程度のものではなかった。 それは雲雀の曾祖父から祖父へ、祖父から父へと確実に遺伝し雲雀もまた彼の父から受け継いでいた。雲雀には個がない。 彼らは皆で雲雀恭弥という名を共有していた。彼の祖父も曾祖父も父も雲雀恭弥で、彼も、もちろん生まれた彼の子も雲雀恭弥だった。 彼らは自然とそれを受け入れているようだった。

 僕と雲雀が出会ったのは十年前の春のことで、雲雀は十五だった。その日は朝から冷たい雨が降っていて、桜が咲いてから二度目の 雨降りだった。花散らしの雨だ。僕は二日前にこの街に来たばかりで、まだ住むところにも食べるものにもありつけていなかった。 食べることは必要だけれど人だったころに比べればそんなにも必要ではないし、時間もぼんやりと流れていた。生き急ぐことはない。 この先も果てしない時間が続いていくのだから。
 僕は歩くのにも疲れて戸を下ろした飯屋の軒先で雨が止むのを待っていたのだけれど、そこに飛び込んできたのが雲雀だった。 横殴りの雨の前には雲雀の赤い蛇目も役に立たなかったようで、傘をさしていたのに彼は酷い有り様だ。一番酷いのは泥まみれの右足で、 本来履いているであろう下駄は雲雀の右手に首吊り死体のようにぷらぷらとぶら下がっていた。彼は無造作にかがみ込んで切れた鼻緒を いじっていたがなかなかうまくいかないようだった。失礼。断って僕も彼の側にかがみ、手から下駄を取り上げる。雲雀の目は黒檀のように 底が知れない色をしていた。彼はじっと僕を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「花散らしの雨だ」
「ええ」
 僕は懐から手拭いを出し、手際よく下駄に通した。こういった類のことは慣れている。むしろ僕はこういったことを新しい街や人の中に 入るきっかけとしてよく使っていた。しかし雲雀には意識せずごく自然にそうしたように思う。別に彼に取り入ろうとしたわけではない のだ。第一、取り入るなら女の子の方が簡単なのだし。
「あなた、見かけない顔だね」
「まだ此処に来たばかりですから」
 何度か鼻緒を引き、藍染の手拭いがしっかりと結べたことを確認して僕は下駄を彼の前に置いた。木目がきちんと揃ったよい職人に 作られた下駄だった。きっと高価で、丁寧に扱われている。雲雀は右足の泥を払ってから足を入れ、そして僕に家に来るようにすすめた。僕はそれを断った
「でもあなた行くところないんでしょう?」
 正直に言って、僕は雲雀の突拍子もない誘いに戸惑っていた。僕は雲雀のところに転がり込む気はなかったし、彼は子どもだった。 僕がええまぁ、などと煮え切らない返事をしていると、雲雀は顔をしかめた。
「ねぇ、僕は何かしてもらったことに礼もしないような恥知らずじゃないんだよ。あなたは僕に恥をかかせたいの?」
 僕は彼に好意を持った。そして僕らは友人になったのだ。

 そのときすでに、雲雀はひとりでこの屋敷に住んでいた。僕が現れる五年ほど前に雲雀の父は亡くなり、母はそれよりはるか昔に亡くなっていた。
「僕の母は亡くなったと聞いているけど、実際のところどうなのかは知らないな」
 十六になった雲雀はそう言った。雲雀の父は彼女を正式に迎えなかったそうだ。けれど、自分はそうではないと雲雀は言う。 それくらいの頃から雲雀は積極的に街に出ては相手を探していた。僕らはこのところよく見られるようになった西洋風の庭園に並んで座り、 行き交う人を観察した。そして妙齢の少女が通ると、彼女が雲雀に相応しいかどうか吟味した。僕はすっきりとした顔立ちの背が高い女のひとが好みで、 雲雀は目鼻立ちがはっきりとした明るく可愛らしい女の子が好みだった。
 人混み嫌いの雲雀がどうしてこんなことをしているのか、僕は聞いてみたことがある。
「なにかを適当に選ぶのは性に合わないんだ。自分で選べるものはすべて自分で選びたい。それに、僕にはそれほど時間がないんだ」と 雲雀は言った。僕は十六になった少年を見る。雲雀は若く、若さゆえの輝きに満ちていた。榛色の目は深く、肌は透き通るように白い。 なによりも命が燃えるような、鮮やかな生命力が雲雀を美しく見せていた。僕にも遠い昔、そのような頃があったのだろう。目の前の少年は とても悲嘆に暮れる年頃ではなかった。分かりませんね、そう言って僕は首を振った。そのときの僕には知るよしもなかったけれど、 結果として僕は長い時間を雲雀と過ごすことになった。七竈が色づき、雪が降り始めても、年が変わり河に氷が張っても僕は雲雀の屋敷に 居続けた。山を覆う桜をともに見た。気がつけば出会ってから九年の月日が流れ、雲雀は妻を迎えた。愛らしく気立てのいい女性だ。 雲雀は二十四で僕は変わらず二十五だった。死者は歳をとらない。
 屋敷に身を寄せて五年ほど経ったころ、雲雀は一度だけ僕に聞いた。あなたは歳を取らないの、と。僕がええと応えると彼はふうんと 言ったきり、それきりで話は終わってしまった。酷く安堵した覚えがある。あの十六の雲雀の言葉の意味はじきに分かった。 雲雀は三十五までしか生きなかった。雲雀の祖父も父もみな三十五で死んだ。そして雲雀もそうであろうはずだった。 雲雀たちは二十四で恋をして二十五で子供を作り、次の雲雀を育てて三十五で死んだ。






 流れ続ける時の前にひとはただ無力だ。
 雲雀が予期したとおり、彼の妻は産後まもなく他界した。屋敷に住み着く得体の知れない僕にも親切な心根の優しい女性だった。 ふたりがともに過ごしたのはわずか一年程度にすぎない。だが彼女は不運ではあったかもしれないけれど、少なくとも不幸ではなかった。 雲雀は十年もの時間をかけて見つけた彼の妻をとても大事にした。かれらは心を通わせあっているように僕には思えた。
 僕と雲雀は彼女を庭の七竈の下に埋めた。そして雲雀はそのあと二度と恋をすることはなかった。

「いいかい、君は二十四で恋をして二十五で子どもを得て、君の雲雀を育てて三十五で死ぬんだ」
 雲雀はちいさなこどもに繰り返しそう言い聞かせた。彼が父から受け継いだ呪いを彼も自分のこどもに引き継がせる。 そのことに雲雀たちはなんの疑問も抱いていないようだった。雲雀はちいさな雲雀を育てながら自然と死ぬ準備をしていた。 血の中に埋め込まれた呪いが一直線に雲雀を死へと引きずっていくのだ。とうの雲雀は己があと十年足らずで死を迎えることを何とも 思っていない。彼にとってきっとそれは当たり前のことなのだろう。ちいさな雲雀が歳を重ね活発になるにつれ、雲雀は静かに内にこもることが 多くなっていった。まるでこどもの雲雀が大人の雲雀を糧にして育っているかのようで、僕には恐ろしかった。
 その頃のことを思うと、夜遅くまで文献の頁を繰ったことばかり思い出す。僕は必死だったのだ。たとえ雲雀が自らのさだめを受け入れて しまっていても、僕は雲雀を失いたくはなかった。
 この世界に本当に守るべき尊いものなど数えるほどしかない。それが危機に晒されているとしたら、その時が来たなら、すべてを投げ打ってでも 守り通さなければならないのだ。僕はそのことを知っていた。
 けれども月日は瞬く間に流れて、七竈が燃えるように色付く晩秋に雲雀はひっそりと死んだ。三十五だった。
 雲雀の家の習わしに従って、僕とちいさな雲雀は野に出て雲雀を焼いた。七竈のように真っ赤な夕暮れの空に雲雀を焼いた煙が登り溶けてゆく。 頭上を雁が連なって飛んでいるのを見ていると眼球の奥がじんと滲んだ。僕はまた大切なものを失った。
 それでも僕にはちいさな雲雀がいた。


 友人だった雲雀がいなくなってしまったあと、僕は残された雲雀を育てることに心血を注いだ。 雲雀の代わりに僕が雲雀を守るのだ。僕が考えていたのはただそれだけだった。そしてすっかり失念していた。 雲雀はその歳にはすでにひとりで生きていたということを。歪みが現れたのはたしか雲雀が十三のころだったように思う。
「あなたが好きだよ」
 唐突にかけられた言葉に僕はなんと答えてよいか分からず、只々ぼうっと立ち尽くすだけだった。その場をどうやって凌いだかすら 覚えていない。 どこで間違えたのだろうか。それ以来、頭の中をしめるのはそのことばかりだった。
 焦った僕は少しでも雲雀の関心を惹くものがないかと彼を外に連れ出すようになった。かつて雲雀の父親である雲雀とよく訪れた庭園にも行ってみたが、 雲雀は外の世界には興味を抱かないようであった。彼は一族の屋敷のなか、雲雀と僕の二人だけの世界で生きていた。
 まだ若いから、なにも知らないから、感情を履き違えているのですよ。僕が雲雀と出会ったとき、彼は既に分別を持った大人だった。 誰かを選ぶというのは特別なことです。きみは大人になるまで軽々しく心を捧げたりしてはいけない。
 我ながら最悪の返事だと思う。これで僕に失望してくれたならよかったのだけれど、それは叶わなかった。
「僕はそうは思わないな。でもいいよ、あなたがそう言うのなら。十五まで待てばいいの?」
 十五は死んだ雲雀が僕と出会った年だ。不服そうな顔の雲雀に僕は曖昧に頷く。

 夢のなかには死んだ雲雀がたびたび姿を見せるようになった。生前のように黒の着流しに身を包んで、静かに哀しみをたたえた瞳で僕を非難する。 君のしていることは間違っている。彼は言葉を持たないけれどその想いは鋭い氷柱となって僕を貫く。 彼は分かっていたのだ。二年のあいだに考えを改めるのは雲雀じゃない、僕だということを。
 だって、仕様がないじゃないか。僕はきみのことが好きだった。ちいさな雲雀が僕を好きだという、それと同じ感情でずっときみが好きだったのだ。 きみはそれを分かっていたはずなのに取り合わなかった。愛した女性のために愛や恋の感情をすべて使い切って、僕の想いは見殺しにしたんだ。
 僕は報われたかった。
 二年もしないうちに僕は心を決めていた。雲雀と一緒に生きてゆこうと。呪いやしきたりなど知らない。僕が雲雀を守ってふたりで幸せになるんだ。 ひとから誹りを受けようとも、夢のなかで死者に脅かされようとも構わない。
 そして雲雀が十五を迎えた日、僕と雲雀は契りを結んだ。 七竈の若葉が夜風にそよぐ美しい夕暮れだった。思い返しても、長いの人生のなかで一番に素敵な出来事だ。僕は幸せの頂にいて、 文字通りそこが絶頂だった。転がり落ちるのは一瞬だ。悲劇はあっという間にやってきた。あまりにも早く、容赦も戸惑いすらもなかった。
 次の日の朝、寝床のなかで雲雀は冷たくなっていた。


 どこで間違えたのだろう、だなんて。
 そもそも僕の存在自体が真っ白な紙の上に零れた墨のように異質だったのだ。その染みが雲雀の生き方を狂わせ、台無しにした。
 僕は屋敷に火を放つ。雲雀たちの家は最後の主とともにゆっくりと炎にのみこまれていった。 ここで雲雀と過ごした二十五年あまりが僕にとっての至福の時だったのだ。そしてその恩寵は僕の前から過ぎ去って、もう二度と戻ってくることはない。 ちいさな雲雀はなにも残さなかったから。
 喉が震えて、涙が頬を伝った。ああ、僕はまだ生きていたのだ。
 今度こそ僕は大声をあげて泣いた。




 

彼の悲劇


たくさんの感謝をこめて。私の骸と雲雀を愛してくださった全ての方に捧げます。
special thanks! 長月さん、ラテさん、ゆうきさん、なによりもずっと読んでくださった加世さま
love! 環さん、九重さん、ミョエさん 本当にありがとうございました!
2013.01.31 Beni