不思議なものを見た。朝焼けにゆらゆらと蒼い衣を靡かせて女がひとり、城の天守閣に立っている。大層うつくしい女人で、
豊かな黒髪を高い所で結い上げて紗からこぼれる手足に玉をはめていた。ひとではない。白い頬には鱗がひとすじ浮かんでいる。
神職の出だからだろうか、物心付く以前からひとならざるものが常に周りにあった小十郎は取り立てて驚きはしなかった。あの女はさしずめ
竜神といったところか。
気をつけなくてはいけないのは神は善きことを行いひとを助けるけれども必ず対価を取っていくということだ。無償で叶う願いなど
ありはしない。小十郎はそういった類のものに極力近づかないように気を配ってきた。
ふいに女が振り向いた。金色の目がすっと細められて唇が笑みの形につりあがり、ぞっとするような寒気が背をかける。
足に根が生えたように立ち尽くす小十郎を横目に女は袖を翻し、そして吸い込まれるように消え去った。病床の主の嫡子が
その命を取り留めた日の、朝のことだ。
程なくして小十郎の主は伊達の当主から嫡子へと変わった。はじめて目通りを許された日、幼子の肌に散る青い痘痕と伏せられた満月いろの
瞳に小十郎はたじろいだ。あの竜は命と引き替えに右目と母の愛を奪っていったのだ。主からはひとではないものの匂いがした。
「ひさしいな」
主は歌うような口調で唇を綻ばせる。やや傷んだ鳶色の髪の下で竜の目が煌々と輝いていた。元服をすませ初陣を控えた前夜、
竜は主の躯を憑代として現れたのだ。主を帰せと迫る小十郎を竜はせせら笑った。
「こじゅうろう、」
名を呼ばれた途端、心臓を鷲掴みにされたような激痛が走って、どっと汗をかく。竜はきゃらきゃらと声を上げた。
「このおとこ、明日の戦場で死ぬぞ」
「…なにを、莫迦な」
「妾が知らぬことなど無い。大切な主は初陣で散るだろうよ。おまえが望むなら助けてやらんこともないぞ」
「ふざけたことを言うんじゃねぇ!このお方は俺が、お守りする」
鯉口を切ると竜は不機嫌に眉を寄せて消えた。
その晩にあったことを主はなにも覚えていなかった。
策においても兵の数も、圧倒的に伊達が有利な戦だった。父輝宗が我が子の為に誂えた負けるはずのない初陣。そこで小十郎は主を
見失った。なにも分かっていなかった。己を認めさせなければと急く主の心も、その闇の深さも。
主の名を叫びながら戦場をかける。失うわけにはいかなかった。大切な、大切なようやく見つけた小十郎のひかり。
ざくりと左頬が裂けて血が吹き出る。敵の刃を避けずに力に任せてねじ伏せた。そして名も知らぬ兵が倒れた先に、女がいた。
蒼い薄絹が戦塵にゆらりゆらりと靡いていた。
「だいじな主はどうした?」
小十郎は神など信じていなかった。信じるべきは己だけと思ってきた。己が主を守るのだと。けれども小十郎は主を見失った。
目の前に立つ竜神がどれほど悪しきものでも、頼るものはもうほかになかった。
「…あの方を助けてくれ」
どんな対価でも払うか?あの方が生きるのならなんだって呑む。よかろう!
嬉々として竜が笑った。数え切れぬほどの玉で飾られた頭をかくりと傾げて媚びるさまは禍々しく、美しい。
掌の上でひとをもてあそんで、さぞかし楽しんでいたのだろう。ああ、ああ。
「おまえの主を助けてやろう。その代わり、伊達の天下は未来永劫訪れぬ」
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