おおよそ佐助の思い通りになることなど、この世にひとつとして無かった。金でその身を買われ、主の命ずるままに善も悪もまっとうするだけの存在。 意志も自由も己の命ですら佐助のものではない。佐助は忍びで、そして忍びは人ではなく戦のための道具でしかないのだ。
 だから佐助は何も望まなかったし、あらゆるものから常に一定の距離を置くようにしていた。唯一の誤算は己を雇った主が佐助をまるで家族か何かのように扱ったことだ。 小さいころはさすけさすけと後ろをくっついて回り、長じても何かに付けては佐助、何をするにも佐助と煩かった。お陰で佐助はまるで主の世話係か母親代わりのようになってしまって いる。終いには幸村の周りが逐一彼の様子を伝えてくるようになった。 これには佐助も辟易したがこの主が嫌いかどうかと聞かれたら困ったことに嫌いではないのだ。猪武者で人を疑うことを知らず、すぐに心を開いてしまうお人好しを佐助は疎むことは 出来なかった。幸村の実直さは美徳であり、危うさでもある。その清さは戦乱の世に生きる将であれば致命的とも言える性質であった。だが主はそのまっすぐなままでいいと佐助は 思っている。幸村に似合わぬ汚い仕事はすべて佐助が引き受ければいいのだ。そう思うほどに佐助にとって幸村は大切な存在だった。幸村は佐助の光だ。
 主のために生き、主のために死ぬ。佐助のすべては幸村のためにあるのだ。だから幸村の他に特別なものなどあるはずもなかった。確かに、無かったはずなのだ。

 瞼をちらつくのはまばゆいばかりの蒼。それは誰もが焦がれる天のいろだった。



 ざざざ、と風が走る。月明かりのない闇夜を佐助は駆ける。夜は佐助の領分だ。
 眼下に流れる風景は一刻も経てば赤い葉が混ざり始め、燃えるような猩々緋となり、やがて葉を落とし枯れ木となる。この地はまもなく冬に閉ざされるのだろう。 僅かに息が乱れて、佐助はそんな己を嘲った。珍しく、急いている。前方に見えるのは奥州王の城だ。小脇に携えたものを抱え直して佐助はたん、と地面を蹴った。
 奥まったところにある主の部屋はひっそりとした匂いで満ちている。雅を好む竜が焚き染める香の名を佐助は知らない。密やかで凛と、それでいて鮮やかに匂い立つそれは 例えるならばそう、冬の香だった。無防備に晒されたうなじからはひときわその香を強く感じる。何時だったろうか、彼は笑って言った。 唇を付けて欲しいところに香を染み込ませるのだと。わざわざ急所に香りを移すだなんて悪趣味も甚だしい。会いたかった、零れた言の葉は馬鹿馬鹿しいほどに熱を帯びていた。
 冬の香がひそむうなじへと鼻をすりつければ伊達は笑って佐助の髪を掻き混ぜる。  首を捕りに来たのか?ひどぉい。恋しいひとに会いに来たっていうのに随分な言われようだね。ハ、まったく達者な口だぜ。
 直ぐにでも食らいつくしたい欲を抑えて佐助は竜の耳元で囁いた。まさむね―
 伊達は僅かに唇を上げただけで応えなかった。夜に白く浮かび上がる横顔は昔話の公達を思わせる。鬼は青年を手に入れるために名を呼ぶのだ。けれども公達はそれに答えない。 名を教え、それに返すことは相手に命を差し出すと同義。応じぬ公達を鬼はどうしたのであったか―
 今にも噛みちぎりたいと疼く衝動に蓋をして、そっと白いそこに花を結ぶ。 濡れた吐息がかかる。男は振り向かない。あんたにあげたいものがあるんだ。佐助はそう言って抱えたものを伊達の方へと押しやった。
 黒いびろうどの中から姿を現したのは南蛮の鳥籠だ。鈍く光を放つ金の薔薇と蔦の葉が絡まるそれは華やかであるのに派手ではなく品の良さが伺える。 新しいわけではないが大切に愛でられて美しく時を重ねたものだった。仕事中に目に留まりどうしてもと譲り受けたのだ。伊達が気に入るだろうと求めたのだが、 案の定そうであったのだろう。口笛の音がした。
「Beautiful!」
 空っぽの鳥かごを覗き込んで伊達が子供のように笑う。
「ねぇー」
 きらきらと光る蒼い鱗を剥いでしまえば竜はただの蛇に戻るのだろうか。そうすれば美しい鳥籠の中に閉じ込めて愛でてあげるのに。
「もっともっと綺麗な籠をあげる。体が痛まないように絹を敷き詰めてあげるし、花も酒も書も、あんたが欲しいものはなんだってあげるよ」
 だから俺だけの小鳥さんになって。佐助の言葉を伊達は笑い飛ばした。
「竜は高いところを飛ぶもんだぜ?生憎と低いところには興味がないんでね」





 次に訪ねたとき、鳥籠の中には一羽の愛らしい金糸雀が入っていた。薔薇の枝を模した止まり木で羽を休めて、大層美しい声で構ってと伊達を呼ぶのだ。 贈り物の居心地は満更でもないようだった。伊達は白い指を籠の中に差し込み、ちょいちょいと金糸雀をつついては遊んでやっている。
 主の手を甘噛みする小鳥を視界の隅に置いて、どうすれば竜を籠に飼うことが出来るのか佐助は未だ考えている。
 やはりべたべたに甘やかして駄目にしてしまうのがいいだろうか。肉親の愛に恵まれなかった伊達が他人の好意に弱いことを知っている。 なにせ自尊心が強い癖して傅役の男が作った優しさと利己心を塗り込めた籠にそうと知りながら閉じこもっているのだから。



鳥籠