惨い言い方をしてしまえば、誰も梵天丸に期待などしていなかったのだ。病で右目を無くしてからというもの、周囲の反応と思い通りにいかぬ身の変化から小さな子供がふさぎこみがちになったのは致し方のないことだと思う。 快活で非常に賢い子供であったから、伊達の跡継ぎとして誉めそやされていた時分からの転落ぶりときたら哀れとしかいいようもなかった。母も臣も梵天丸はいないものとして扱ったものだから、鬱々とした子供が今や奥州王も間 近の青年に成長したのはひとえに片倉小十郎景綱の努力と政宗自身が人の上に立つ器であったことが幸いしてのことだ。
 そしてその影に父である輝宗の並々ならぬ愛と尽力があることを小十郎は知っている。

 こんなことがあった。
 隻眼で体中に疱瘡の痕がある若様は人を害する化け物だと口さがないものたちが噂して、梵天丸はすっかりふさぎこんでしまった。目がなくては人ではないのかと涙を零す子供に小十郎は海の向こうのひとつ目の豪傑の話をした のだ。生まれつき片目が開かず、独眼竜と呼ばれていたこと。黒づくめの戦姿は勇猛さで知れ渡っていたこと。後に国の始祖になったこと。あなたさまもそのような竜になりませんと、と締めくくったものの竜を見たことのない梵 天丸は首を捻っていた。
 梵天丸の部屋に大きな屏風が運び込まれたのはそれからふた月のちのことである。竜とはどのようなものだろうかと零した梵天丸の言葉を耳に留めて輝宗が著名な絵師に描かせた竜の姿はそれは立派なものだった。
 雷を纏い雲を従えた一匹の竜がいきいきと水墨画に描き出されている。墨は濃くなり薄くなりいくつものうねりになって見る者を圧倒した。風を駆る竜ははっしと地を睨み付けている。けして地には降りてこない気高きいきもの。 小十郎もその威厳に満ちた様子に胸を打つものを感じた。
 その日から梵天丸は屏風の前に立ち、竜を眺めることが多くなった。梵天はこのようにありたいと呟いた小さな声を聞いたのは何時だったろうか。小十郎は竜にも悪しきものと良きものがあること、格の違いがあることを教えた。
 ご覧くださいませ、この竜は五つの爪を持っております。五爪の竜はもっとも位が高く、海の向こうでは帝しか用いることを許されぬ王者のあかしなのです。五爪の竜になれということか?いいえ、どうせなら六爪の竜におなり くださいませ。あなたさまはその器でございます。
 と小十郎は言った。確かにそう言ったのだが。


「Hey,小十郎これを見ろよ!!」
 障子を蹴破らんばかりの勢いで部屋に飛び込んできた主の手に握られたものを見て小十郎は顔を顰めた。政宗の手には三本ずつ、合わせて六本の刀が握られている。部屋のなかで刀を振り回すのはおやめくださいと言う前に人の悪 い笑みを浮かべた青年はじゃきりと六本の刀を構えて見せた。開け放たれた障子の向こうに見える稽古場では吹っ飛ばされた家臣たちが折り重なるようにして倒れている。
 最高にcoolだろ!暴れものの竜は無邪気にはしゃいで、まるきり子供である。刀が一本増え、また一本と増えていったときにはまさかと思ったが、小十郎の主は案外に単純な、いや純粋なひとであったようだ。
 くーる、というのは確か格好がいいとか粋という意味であったと記憶している。しかし六本の刀を構える主の姿はどう見ても猫が爪を立てているようにしか見えない。加えて戦場で三日月の兜を被ろうものなら後ろ姿は猫そのもの だろう。どうだどうだとせっつく政宗にまさか猫のようで可愛らしゅうございますな、などと言えるはずもなく小十郎は日頃からのしかめっつらを更に渋くさせて、ええ、はい、そうでございますなと言うにとどまった。
 望んだものではない返答に主は頬をぶうと膨らませたものの、小十郎の言葉ぐらいでは機嫌を損ねるに至らなかったのだろう。瞬く間に笑みを浮かべてくるりと踵を返した。おい、てめえら稽古付けてやるぜ、かかってきな!
 これに慌てたのは政宗にのされていた家臣たちだ。すでに満身創痍の男たちは顔を青白くさせて後退る。 Wait!逃がさねぇぞと叫んで政宗はばたばたと飛び出していった。
 小十郎は溜息を付いて文机に向き直る。じっとしていられない主が放り出した本日締めの政務はまだ半分も終わっていない。それは山のように机の脇を占拠していた。賑やかなことは良いことだ。少なくとも子供が閉じこもり人知れ ず涙を零すよりずっと 良いことに違いない。

 開け放たれた障子から見える空は腹立たしいぐらいの快晴である。



竜の爪