小十郎の縄張りから少しはずれた小さな山のなかには古い稲荷神社がある。
朱赤の鳥居はところどころが剥がれて黒ずみ、随分と寂しい雰囲気を醸し出していた。お参りに来る人もいないのだろう。
賽銭も供物もなくついにはお狐さまも見捨てたのか、がらんどうであった。神もあやかしも信じるものがいなければ存在する
ことすら危ういのだ。世に云う無常というやつだなと小十郎は灰色の尻尾を揺らした。
のろのろと足を引き摺りながら歩いていると、気が付けばあの稲荷の前であった。縄張りから追い立てられて無意識に安全な
場所へと足が向いたのだろう。追っ手は鴉天狗で、あやかしは結界のなかには入ることが出来ない。逃げ込んでしまえばひとまず
命は助かるだろう。地面には足を引き摺ったあとと血痕が残っている。
小十郎は狼だ。鬱蒼とした森をねぐらに、このあたり一帯を縄張りとしている。小十郎が頂点に立ってからは争いごとは余りなく
森は平穏を保たれていたのだが、近頃になってやたらとあやかしの類がのさばるようになった。小十郎があやかしが見えるように彼らも
小十郎が見えるのか時に執拗に襲われる。大概は返り討ちにするのだが今度ばかりは相手が悪かった。鴉天狗はあっさりと小十郎を下し、
森から追い出した今も追撃の手を緩めようとしない。
しばし鳥居の前に佇んでいたが、後ろの茂みからがさがさと音がして小十郎は我に返った。爪で裂かれた頬の傷がひどく疼く。
顎を伝う血をぺろりと舐めて小十郎は鳥居を潜った。
後ろで結界に阻まれた鴉天狗がぎゃあぎゃあと喚いているが、どうやら入っては来られないようで安堵した。
不浄の血を聖域は拒むという思いも杞憂だったらしく、小十郎は稲荷の社へと潜り込むと意識を手放した。
ぱたぱた、ぱたぱた。
柔らかい足音に意識は急に持ち上げられた。誰だと探る間もなしに声がかかる。
「きつね、今日はいるのか」
まだ高い子供の声だ。障子には小さな影が映り込んでいた。小十郎がたやすく抑え込めそうな幼い子供だ。
熱を発する頭が重く、小十郎は前足の間に顔を埋める。こんな時分に稲荷狐を訪ねてくるなんて、どんな子供なのだろうか。
そもそも社に上がり込むなんて。
うつらうつらと寝そべっていた小十郎はぎょっとした。入るぞと子供が障子に手をかけたのだ。
からら、と障子が開き月の光と一緒に小さな影が入ってくる。
目を持ち上げると随分と身なりのいい子供が白い小皿を片手に立っていた。ぷんと甘く煮詰めた油揚げの匂いが鼻をくすぐる。
どこかの武家の子供か。目に鮮やかな青の単衣に墨色の袴を履いている。その上から白に金糸で雀が縫い取った明らかに手の込んだ
羽織を着ていた。子供は小十郎が怖くはないのか、ずかずかと近寄った。
「おまえ、おおかみか」
まさか稲荷狐に見えるわけでもないだろうに。
「おおかみは油揚げは好きなのか?」
首を傾けて子供は油揚げの皿をのぞき込んだ。油揚げじゃなくて柔らかい子供の肉に噛みついてやろうか。そう思ったとき、目の前を
花浅葱の帯がずるずると引き摺られていき、とっさにぱしんと前足で押さえてしまった。それは動くものを追う獣の習性にすぎなかった
のだけれど、結果として小十郎の思っている以上の効果をもたらした。
がしゃん!子供の手から皿が零れ落ち、ぼたりと油揚げが転がる。へたりと座り込む子供の横で手にした帯がふるふると震えている。
よく見れば帯のようなそれは水色やら紺瑠璃やらさまざまな鱗が付いていた。子供は目玉が零れそうなほどに驚き、その目は瞳孔が縦に
裂けていた。驚きたいのは小十郎の方だ。柔らかそうな子供の髪からは鹿のような角が生えてきらきらと光っていた。
新しく建立された竜神さまの社と合わせて参ればご利益が二倍になると、どこからともなく生まれた噂によって稲荷は再び
ひとを集めるようになった。茫々だった草は刈り取られ、鳥居は塗り直されて美しい朱色に戻った。なによりである。ただひとつ、
ケチをつけるとすれば。
「油揚げは好きじゃねぇんだがな」
べとべとと皿の上に積み上げられた油揚げを辟易とした顔で小十郎は押しやった。傷を負って社に忍び込んでからひと月あまり。
時折境内を歩く以外にはほぼ籠りきりである。熱は三日ほどですぐに引いたのだが、出て行こうとするとあの子供が許そうとしない。
それで小十郎は稲荷神社で狐のふりをしているのだ。
しゃんしゃんと鈴が鳴ってまた参拝者が来たようだった。お狐さま。若い娘の声が願い事を唱える。好きなあの方と結ばれますように。
小十郎は返事の代わりに隣に置いた木魚を叩いた。どういった作りなのかコンと狐の鳴き声のような音がするのだ。コンコン。
娘はひどく喜んで帰って行った。何をやってんだ俺は。ハァとため息をつく間もなく境内とは逆の襖が小気味いい音を立てて開き、
子供が転がり込むように入ってきた。
「小十郎!」
小さな手が油揚げを携えている。だから油揚げは嫌いだってのに!今度こそ小十郎は溜息をついた。
子供の正体は竜神だ。
あの日小十郎は気付かなかったのだが、寂れた稲荷の横に大きな神社が造られ、そこに祀られたのが竜神さまである。なんでも
北の方では名高い祭神の跡継ぎ息子らしく、見習いと称して親元から出てきたらしい。人にして齢八つほどだろうか。
よほど退屈なのか子供は小十郎の世話を焼きたがった。傷の手当てをし、食事を与え、しきりに話しかけてくる。寂しいのだろう。
絆されたのがいけなかったのか、終には主従の契りを結ぶに至ってしまった。ことの顛末を思い出すだけで小十郎はぞっとする。
十日ほど前のことだ。その日は満月で煌々と月が庭の木々を照らすなか、小十郎は何故か眠ることが出来ずに虫の声に耳を澄ませていた。
すると鈴虫のリンリンという音に紛れてちいさくこじゅうろう、と呼ぶ声がする。
狸寝入りを決め込むことも出来たのに小十郎の足はなぜか立ち上がり、苔の庭をのぞむ縁に降り立った。敷石のところにはあの子供がいて
、子供の手は傍らに立つ美しい女人と繋がれていた。二人の顔はとても似ている。小十郎が顔をのぞかせた途端、女人は眉をひそめた。
あからさまに不快の念を浮かべている。
「狼と聞いてはおったが、まことただの獣とは!下等のあやかしですらないとはな」
呆気にとられる小十郎を無視して女人はキッと睨みつけた。
「よいか、この子は本来ならばそなたなど目通りも許されぬほどの尊い神ぞ。父母のもとに置いて蝶よ花よと育てたいものを
殿がどうしてもとおっしゃるゆえこうしてひとり修行に出したのだ。わたくしがついてゆくと言うたのに殿は聞き届けてくれなんだ
。しかし竜の血を引くとはいえ梵天はまだ幼い子。供を寄越そうと思うたがこの子が小十郎がいいと言って聞かぬ」
小十郎とやら、竜女はぬっと顔を近付けた。首もとでうろこを繋いだ飾りがしゃらしゃらと涼やかな音を立てる。
「口惜しいがそなたに梵天を託します。朝も夕も梵天をただ一人の主と思うて尽くすのじゃ。そなたの命よりも大事なのはこの子ぞ」
一方的に言い切ると美しく恐ろしい女は子供を抱き上げて頬ずりした。そなたを離しとうない可愛い梵天だの大好きな母上のために
梵天は立派になってみせますだの完全にふたりの世界である。ひと通り戯れたあとようやく帰ることにしたらしい竜女は子と別れの挨拶を
交わしたのだが、不意に思い出したかのように小十郎を見た。そういえばと紅を塗った唇が弧を描く。
「そなた、梵天の尾に触れたそうじゃな」
その瞬間くわっと唇がめくれ鋭い牙が覗いた。小十郎の目の前にさらされた口の中は獣を食らったかのように紅い。
「身を弁えよ!二度と触れるでない!」
竜に姿を変えた女は棲家へと戻っていった。小十郎はへなへなと座り込む。怖い。烏天狗など比ではないくらいに恐ろしい。
竜神の子供は小十郎の様子に構わず敷石から上がってまとわりついてきた。
「母上は愛情表現が激しい方ゆえ、気にするな!それよりもこれで梵天と小十郎は晴れて主従だぞ。小十郎は狐稲荷に住め。
おとなりさんだ!」
そうして止むに止まれぬ理由でふたりは主従になった。なにがお隣さんだ。己のあまりの運のなさに小十郎はあとで少しだけ泣いた。
ちらと社に目をやれば、御簾のむこうで主がいつになく真面目な顔をして政務に励んでいた。賽銭箱の前で一心に手を合わせる老婆は孫が重い病に憑かれた
らしく、その日から毎朝毎晩やってきては祈っている。これはきっと治しに行くと言い出すだろうなと小十郎は踏んだ。
早いもので小十郎が強制的に子供を押し付けられた日から三十年余りが経とうとしている。稲荷の留守を守り、人から敬われるうちに
小十郎はただの狼から神へと移っていった。今ではひとのかたちを取ることも出来る。小さな願いぐらいならば叶えてやれる
ようになった。
「小十郎」
振り向くと青年と呼べる頃合いに差し掛かった主が笑っていた。華やかな蒼の衣の上にうろこを繋ぎ合わせた首飾りを掛けている。
陽光を受けて瑠璃にも浅黄にも輝くそれは大人になった証拠なのだ。
「お出かけですか」
「おう。ちょっと行ってくる」
いつ戻るのかという問いに夕刻にはと答えた主は悪戯っぽく目を細めると内緒話をするかのように顔を近付けてくる。ちょいちょいと
指で招かれ、頭ひとつぶん背の高い小十郎が耳を貸すと、わざわざ手で衝立をしているのがまったく意味のないほどに大きな声で主は言った。
今夜、夜伽を命じる!
小十郎は深いため息をついた。
いくら神様の子供とはいえ、心細いのだろうと夜に添い寝をしたのがいけなかった。すっかり味を占めたのか主はことあるごとに添い寝を
せがむようになり、それは成体を取ってからも続いた。さすがにいけないと主を放り出したのだが時すでに遅く、主は命令という形を
取って小十郎に添い寝を迫るようになった。命じられれば従者である小十郎は従わねばならない。
おまけにどこでそのような言葉を覚えたのか添い寝を夜伽と勘違いしているようで小十郎は頭が痛い。誰かが聞いたらどうしてくれる。
いや、添い寝でも十分にまずいんだが。
あの晩、母の竜がなぜあんなにも激高したのか。十年ほど前に小十郎はそれをほかならぬ主の口から聞いた。
女竜は適齢期になると男竜たちに己を追いかけさせ、尾を掴んだものと契りを交わすのだそうだ。いずれにせよ尾は逆鱗と同じく
大切なものらしい。だから俺は小十郎に嫁ぐんだぜ!と言い切った主によって小十郎は絶望の淵に叩き落されたのである。
まったく育てた親の顔が見てみたいと脳をよぎった女人の顔に小十郎は身震いした。母竜はあの時ほど頻繁ではないが
折々にやってきては仲睦まじい様子である。小十郎を見る目は相変わらず冷たい。いくら時が流れても怖いものは怖いのだ。
押し黙った小十郎を主は不思議そうに見ていたが何を思ったのかそうか、そんなに嬉しいかとにっかり笑った。
待ってろ早く帰ってきてやるからな。主は小十郎の言葉も聞かずに走り去ったかと思えば、鳥居の前でくるり振り返って叫んだ。
じゃあ今夜!
おとなりさん
小十郎と政宗さまがお隣同士だったらという素敵企画「隣人」に参加させていただきました。
生魚様、ありがとうございました!
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