あのとき燃え尽き喪われた魂が、今もわたしを呼ぶのだ




 開いた指をぎゅうと握れば、手のなかに居た小さな蛙は慌てて飛び上がった。今度はなにも含まぬ掌をゆっくりと開く。 そこに嘗て六本もの刀を握った指の面影は見いだせなかった。稽古を続けているゆえに肉刺が潰れて硬い指先はそのままだが、 あの頃よりもはるかに細く、白くなってしまった。この安寧の世に刀を振るう場などあろうはずもない。まして六爪など、とても。
 己の指を刀よりも筆や茶器の似合う手だと伊達は自嘲した。広い空の下、戦場を駆け抜けた記憶はひどく遠く鮮やかさを徐々に失いつつ ある。すべてを分けたあの戦から既に八年が経ち、伊達は二十九を迎えた。あの男は生きていれば二十七のはずである。

 貴方様はけして命を落とすことがあってはなりませぬ。
 十二で元服し名を改めたときから、それは幾度と言われ続けてきた言葉だった。もはや幾人から、幾度言われたかも分からぬそれは 呪いのようであった。死んではならない。なにがあろうと、たとえどんなにか卑劣な手段を尽くそうと、生き残らねばならない。 伊達の命は家の、家臣たちの、奥州の民すべての命であった。伊達が敗れればそれらは風前の灯のように掻き消えるのだ。 死ぬことは罪だ。伊達は武士であったが、それ以前に当主であった。
 真田幸村が、伊達の唯一の好敵手であった男が死んだのは伊達の手によってであった。いずれ決着がつくこと、そしてどちらかが 命を落とすであろうことは明白であった。それでも互いに刃を交えずにはいられぬ魂の惹きあいがふたりの間にはあったのだ。 こころ掻き立てられ、焦がれる。湧き立つのは歓喜だ。一国の主として命を全うせねばならぬ伊達の武士としての魂に火をつけたのは 真田であった。いくたびかの邂逅を経て、天下分け目の戦場で相手を下したのは伊達だった。腹を血で汚して、けれど男の顔に浮かぶは 笑みであった。政宗殿。何時だとて真田は喜びをもって伊達の名を呼んだ。たのしゅうございました、政宗殿。某は幸せ者にござりまする。
 思えば真田ほど武士と呼ぶに相応しい男もいなかったであろう。本分を全うした男は戦国の世の幕切れと共に姿を消した。 伊達の魂を道連れにして。


 雨にしっとりと濡れそぼる紫陽花の青が薄曇りに浮かび上がっている。浅葱から群青へ、瑠璃から紫紺へ。花が重なり影を濃くする 茂みの奥からぬらり、白銀のいきものが首を擡げている。何時ぞや傅役が毒持ちだと教えてくれた小蛇だ。じっとしゃがみこむ伊達を 眺める目があまりに若虎を思わせる色をしていたものだから、気に入らなくて殺してしまった。伊達の暴挙を蛇は恨んだのだろう、 祟られたのか気がつけば屋敷のなかを蛇が我が物顔で這っている。どうやら伊達のほかには見えていないようだった。
 蛇たちは口々に真田の声で呪詛を吐く。政宗殿、政宗殿。柱やら天井から白銀がぼとぼとと落ちては伊達の周りをくるくると泳いで 何処かへ消えていった。近寄ってきた一匹を手で払えばそれは忌々しそうに目を細めてくわと牙を剥いた。随分な扱いにございますな、 政宗殿。うるせぇ、とっとと失せな。怒ったときでさえ男の声はほがらかで光を含んでいた。鋼のように冷たい音など終ぞ 聞いたことがない。つまり、小蛇は伊達の見る幻覚なのだ。
 政宗さま。またも始まる呪詛の合唱に被さって低く豊かな声が政宗を呼んだ。断って入室した傅役は白い夜着を着て髪を下ろしている。 その目に熱が宿っているのを見て、政宗は己が男を褥に呼びつけたことを思い出した。開け放たれた奥の間には小姓が整えた床が延べてある。
 男の手が頬に触れたとき、上からぼとりと何かが落ちてきた。肩に絡まりすぐさま首を擡げる赤い目の蛇だ。思わず竦んだ伊達を見て、 男は訝しんだようだった。如何なされた。蛇が。蛇?ほら、そこに居やがる。お前の肩の上に。蛇など居りませぬ。お疲れなのでしょう。 お前のとこだけじゃねぇ、その行灯の側にも柱の上にも居るんだよ!
 取り乱した伊達を見て流石に慌てたのか、落ち着いて、と頭を抱えられた。その折にずるりと音がして肩の上の小蛇が身を乗りだし、 べろり、赤い舌で眼帯を舐める。政宗殿、返してくだされ政宗殿。鋼のように冷たい声だ。ゆきむら。男の名を言い終えるより早く、 遠慮なしに入り込んだ不遜な指が舌を摘んだ。流石に、妬きます。唇の端から零れた唾液がとろり腕を伝うのが見えた。








 私室の飾り棚に置かれた骨董の箱を開ける。異国の布切れの下に手を潜らせればかちゃりと音がして指とぶつかった。拾い上げたのは 紐で繋がれた六つの銅貨だ。あの日、あの男の抜け殻から伊達が奪い取ったもの。 真田はこれのせいで成仏出来ていないのかもしれない。
 ならばおあいこだ。男は竜の魂を抱いて逝ったまま、今も返そうと しない。いっそ幻が取り返せぬよう喰らってしまおうか。真田の胸できらきらと光っていた六文銭はところどころに血がこびりついて黒ずんで しまった。暫く手の内で弄んでいたが、また件の蛇がするりと近寄ってきたことに気付く。返してやるものか。 歯を立てた銅貨は案の定、苦い。





ナルコレプシィの備忘録