主のなかに宿る人ならざる力に気付いたのは何時のことだったか。彼の人が未だ元服を迎える前、梵天丸と呼ばれていたころであった と記憶している。
 小十郎とて端から幼い主に仕えるを良しとしたわけではない。嫡子とはいえ、母に疎まれ父の愛だけを頼りにする内向的な少年は あまりにも頼りなかった。加えて当主の輝宗は三十という男盛り。近従として侍るのであれば輝宗のほうがよいに決まっていた。
 齢九つの少年は賢かったのだろう、小十郎の心を見抜いてなかなか懐こうとはしなかった。幾つか陰湿な嫌がらせも受けたように思う。

 ある日のことだ。
 澄み渡っていた空に突如として雲が架かり、瞬く間に嵐となった。雨が横殴りに降り注ぎ、雷鳴が近付いてくる。 主を探していた小十郎が土砂降りの庭に履き物もなく立つ小さな背中を見つけ慌てて駆け寄った、そのとき。 目も眩むような光があたりの空気を引き裂いた。雷鳴が轟き、一面が白く染まる。
 雷は高い木ではなく、幼い主の真上に落ちて身を貫いた。びりびりと地面が震え、それは離れていた屋敷の廊下にまで伝わる。 よろめきながら走り寄った主の躯は倒れずにそのままであった。梵天丸さま、恐る恐る声をかけると主はしっかりとした足取りで此方を 向き、振り返ったその目の強さに小十郎は息を呑んだ。
 空と海の蒼を混ぜた瞳の中に金色の光が揺らめいている。その光は煌々と輝いて小十郎を射抜く。 ちいさな主のなかに竜がいた。気が付けば小十郎は主の足元に崩れ伏していた。大いなる存在の前に畏怖とはまた違った何かを感じ、 躯が震えた。きっとこの竜は天を翔け日ノ本に名を馳せるもののふとなるだろう。ならば己もせめて蛟となって傍でそのときを迎えたい。 そう思ったのだ。










 昼過ぎには汗ばむほどの陽気であったのに、今は羽織を出すほどに肌寒い。夕刻にはほど遠いというのに雨雲が陽光をさえぎり 薄暗く陰気な空気である。
 馬を走らせたけれども間に合わず、随分と濡れてしまった。 己の部屋へと急ぐなか、白く浮かび上がる背中を見つけて小十郎は立ち止まった。たとえ何万の兵に囲まれていようと見出すことの できるただひとりの主が回廊の隅に佇んでいる。雨の降りしきる庭を眺める若い当主に声をかけようと歩み寄った瞬間、空が裂けた。
 轟音とともに視界が白く灼けるなか、主が振り返った。闇を斥け、すべての色を塗りつぶした光のなかで蒼に浮かぶ金色だけが鮮やかに 小十郎を射抜く。あの時のように。
 無様に倒れ伏しはしなかったものの、息が詰まって心臓が跳ねた。こういったときに小十郎は己のちいささを思い知る。 奥州に双竜ありと人は呼ぶけれど、己は蛟にすぎないと。
 激しい音は天から真逆様に墜落して地に潜り込んでいった。濡れた草は青い。怒っているのか、地に留まる竜を呼んでいるのか。
 主は息を詰めた小十郎の頬を濡らす水をぐいと拭い、その温かさに小十郎は己の躯が冷え切っていることを思い出した。 濡れ鼠に構わず躯を寄せてくる主を引き離そうとしたとき、ふたたび雷があたりを切り裂いた。
「知っているか?蛟は咬まれりゃ竜になるんだと」
 光が掠れ薄闇が影を取り戻すなか、主の瞳の金がぶわりと広がりそのかたちを変えた。鋭い光はやがていきものの姿を取る。竜だ。 高らかに吼え牙を剥いた竜は小十郎に襲いかかり、呑み込んだ。

 覆い被さっていた主の唇が離れ、は、と息を吹く。今度こそ脚は力を失って、小十郎は崩れるように膝を付いた。
「この独眼竜が喰らってやるからお前は俺と同じものになればいい」
 鋭い牙を突き立てられた唇が切れて血が滲んでいる。
「ずっと傍で背を守れ、俺の黒龍」
 主が唇に付いた血を拭って笑った。雷鳴は遠ざかり、相も変わらず薄暗い空からやや小降りになった雨がさあさあと涙を零している。 躯は芯から冷え切り、そうであるのに心臓のあたりだけが燃えるように熱かった。震える足を叱咤して立ち上がると主は踵を返し、 小十郎も後に続く。
 この猛々しいひとから逃れることはできぬ。
 畏れとも誇りともつかぬその言葉だけが胸の内をぐるぐると回っていた。



雷鳴、雷光、再生