一面の朱であった。床も、壁も天井も、毳毳しく塗りたくられた遊女の唇のいろである。 じっと眺めていればどろり溶けて呑まれてしまいそうだ。むらなく広がる朱は時に火のように燃え、また血のように滴り落ちる。 気の弱い者であれば七日と保たずに発狂に至るだろう。 べったりと朱く塗りつぶされた部屋、それが片倉の知り得る世界のすべてだ。
 何時から己がこの部屋にいるのか、片倉は覚えていない。気付いたときには既に朱色に囲まれ、この身は其処に存在していた。
 部屋のなかは至って簡素な造りである。羽毛をたっぷりと詰めた布で覆ったヴェッドとバスタヴ、壁に一枚の絵が掛けられている ほかにはなにもない。そのヴェッドだとて片倉のものではなかった。片倉は部屋のうちでやがて訪れるであろう何人目かも分からぬ男、 或いは女を待つだけであった。此処にやってくる者は片倉の手によって汚れを落とされ磨き立てられて三日目の朝にまた扉を出て行き、 そして命を落とす。神前に贄としてその生きた心臓を捧げるのだ。それらの世話が片倉の務めだった。幾人もの生贄の世話 をし、見送って、そんな毎日の繰り返しが片倉の人生である。

 がたり。重い音がして振り返れば扉が閉じようとしている。ほんの一瞬、差し込んだ光は燃え尽きたようなオレンジだった。夕刻だ。 扉の前には男が倒れていた。ぐったりと動かない体は雁字搦めに縛られ、腕にはぎっちりと縄が食い込んでいる。片倉は眉を顰めた。 乱暴に縛られた痕を残り二日で消さなくてはならない。神は美しく完全な餌を求めるので供える贄が傷物では困るのだ。
 未だぴくりともせぬ虜を抱き起こすと鳶色の髪の合間から整った顔が覗いた。片倉よりひとまわりほど若く少年の面影を微かに留めた 容貌は洗練されていた。 生贄に選ばれるのは無骨な男が多い。武芸に秀で戦を勝ち抜いた者がもっとも優れた供物なのだ。このような青年が選ばれることは 今までになかった。 青年の縄を切り抱え上げる。身体を洗って磨き上げなくてはいけない。片倉に残された時間はあと二日しかない。


 身体が沈んでしまうほど柔らかなヴェッドの上に身を横たえ、足を片倉に預けた状態で生贄の青年は頬杖をついてこちらを見ている。 人に尽くされることに慣れた態度だった。片倉は贄の足に香油を塗って爪をちいさな刀で整えている。
 変わった男だった。この国の人間ならば生贄に選ばれたものの末路はみな知っている。祭のクライマクスに生きながらにして心臓を 抉られ、あとは神官たちにずたずたに裂かれて頭は神に捧げられる。祭壇に流れる生贄の血を以て太陽に国の平和と繁栄を願うのだ。 大変な名誉と言われようと、いざ己が身のこととなれば猛々しいものも震え上がる。けれども青年は怯えた様子も傲る様子も見せず、 時折身体の向きを変えるほかは大人しく片倉に身を任せていた。
 じぃと見つめてくる山吹色の瞳はひとつきりでもう片方は香を焚きしめた布切れの下に隠れ、ひしゃげている。とっくに塞がった古い傷 だから問題ないはずだ。多分。 爪を整え終えて食事を出すと青年は一瞥して不満そうに鼻を鳴らした。生贄に出すのは水と野菜、よくて果物が付く程度の質素な食事 である。肉や魚は身体の浄化を妨げるので食べさせない。それが決まりだ。
 なぁ、と青年が声をあげた。はじめて聴くそれは張りがあって美しく、思ったよりも低い。片倉はなにか、と答える。青年の指がついと 持ち上がって壁の絵を指した。あれは供物の男か?
 べたべたと朱く塗られた壁の一角に不気味な絵が掛けてある。青年の言うように生贄の頭部を描いたものだ。盆の上で神に 捧げられた首が血を滴らせている。生贄の目は開いているがそのおもては歓喜と恍惚とをないまぜにした表情を浮かべていた。
 神に生を捧げるのは至上の喜びでこのうえない快楽であるべきなのだ。現実ではそうはいかないから虜には媚薬を嗅がせる。 神に召される栄誉に酔いしれるなか絶命するのだと教えてやれば青年はスィニカルに唇を歪めた。 俺にも薬を嗅がせるのか?そのときが来れば。悪趣味もいいところだと青年は笑う。そうやって二日目の晩は過ぎていった。 縄の痕は残ることなく消え去っていた。





 三日目の早朝、暗いうちに片倉は青年を起こした。厳しい冷え込みのせいか雲ひとつない空にびっしりと星が列んでいる。 何処までも漆黒で、夜明けには程遠い。
 青年はなかなか起きようとしなかったが片倉が名を呼ぶと直ぐに顔を上げた。政宗さま、言い聞かせるように再度呼べば舌打ちが 聞こえて完全に覚醒した目が片倉を睨みつけた。
 何時から気付いてやがった。貴方が此処に来られたときからです。 綺麗さっぱり忘れてんのかと思ったぜ。ご無礼をお許しください、昨夜までは見張られておりました。構わねぇよ。 相変わらずだな小十郎。
 言葉を交わしながらも目立たぬよう地味な服を着せ、食物をくるんだものを懐に入れてやり護身にと刀を渡す。 伊達が刀を鞘から抜き、柄に目をおとすとあの時から変わらぬ銘が刻まれていた。己のことも男のこともすべて覚えている。 忘れるはずがないのだ。
 黒鍔の眼帯を差し出すと伊達は頸を振った。それはおまえが持っておけ、黒龍は俺が預かる。御意。 畜生、ちぃとしか一緒にいられなかった。玩具を取り上げられた子供のようにむずかる主に片倉は笑みをこぼした。直にお会い できましょう。何時の世も小十郎の生きる場所は政宗さまのお側しかありませぬゆえ。そうだな。 次はもっと早くに見つけてやると言い残して去る伊達の背を見送った。静かに扉が閉まって片倉はまた朱い部屋にひとりになった。
 幾許もたたぬうちに外が騒がしくなりがちゃがちゃと刃物が擦れ合う音が耳に届いた。気付かれたのだろう。手にしたままの 眼帯をそっと握る。ふと主が出て行った外はどのような所なのだろうと思い片倉はそんな己を笑った。今までは興味もなかったくせに、 主が絡むとすぐこうなのだ。あの方の言った通り自分は変わらなさすぎる。だが、それでいいのだ。
 きしむ扉の横に掛けられた絵を見て、嗚呼と思う。あの絵は自分のことなのだ。主の為に生き、主の為に死ぬことが無上の喜び。 きっと死の間際、己は贄と同じ恍惚のいろを浮かべるのだろう。
 ひどく甘美に思え、体の奥が疼いた。



呪縛